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かわいいひとたち

うれしいこと。最新詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が映画化されます。来年春公開です。監督・脚本は「舟を編む」の石井裕也さん、主演は石橋静河さん・池松壮亮さんです。昨日ちょうどテレビで池松さんがつるべさんとお話ししていて「わ、わー」という変な声が出ました。詩集の帯にも「映画化決定」という文字が印刷されて、それもまた「わ、わー」っていう声が出ました。なんだかすごい。すごいことが起きている、こわい。うれしいよ!
最初に映画化のお話しもらった時はいったいそれはどういうこと?ってかんじでイメージできなかった。でもなんていうか、詩が解体されて、解釈されて、そして物語に変換されていくというやりかたではなくて、詩の外側に世界が広がっていく感じ。詩とともに流れていくようにして人の生活が、人生が息づく映画になりそうで、今はとてもとても完成が楽しみです。常日頃、詩の解釈は読む人によって違っていてほしいと思っていて、それはその行間に見るものが人によってきっと違うからなんだけれど、今回の映画でも、そうしたゆらぎを大切にしてもらえている気がする。なにより、詩集をきっかけにして、また別の新しい作品が生まれるなんてとんでもなく幸せなこと。
   
幼さが失われていくわけではないし、矯正されるわけでもないし、大人になってうまくなったのはコントロールだけだろうと思う。そこからはみ出てしまったり、コントロールを放棄してしまったりした人がとても愛らしいのは仕方がない。こどもだから。で、愛らしいってなんだよ、かわいいって何、それは妥協ではないの、とも思うんだけど。人がどうして人の欠点を愛おしくおもったりするのか、「かわいい」って言葉があるのか、っていうことに、ときどきそんなん「諦め」だろう、とも思う。諦めはただの意思だ、選択だ。そういうことにするってその人が決めた、それだけのことだ。
つまり私がどうしようもないひとの悪意だとかをまるごとかわいいって思った時に、どこかで「かわいいって思ってやらなきゃやってらんねえ」って気持ちがないこともないのかもしれない。でもわたしがわたしの感情や発想を因数分解してどこまでも突き詰めていった結果、まともに残る感情などゼロだし、喜怒哀楽すべて幻だったと思い知るはずで。かわいいって思うことができたならそのまま放棄したほうがいいとかおもう。私は私の感情に対してどこまで正確でいなくちゃいけないのか。で、正確に微分しまくった感情は、感情として残ってくれるんだろうか?かわいいで踏みとどまれるならそうしたいというそういう選択ができるということ。そっちのほうが私には重要で、愛はずるいし、卑怯なものだ。私は私自身の思考よりも、それをみっともないというひとの考えることのほうが多分ずっとよく理解できるし、それでもそっちにいかないのは好みの問題なだけなんだよな。目から、正しさビームを出したくない。
選択はなんだって身勝手なもので、だからこそどういう結果を出そうが、結果に関わっている時点でその感情や理屈は暴力的で、正しさだろうが愛だろうがそれは多分変わらないだろう。