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それでも町は廻っている

漫画「それでも町は廻っている」が終わってしまった。私はこの漫画が本当に好きで、手放しで「好き!」と空に向かって言いたいぐらいに好きで、だからこそ、終わってしまったら私は本当に心に穴が開いてしまうのではないか、と不安で不安で、その悲しさで泣きながら読み終わるかもしれない、とここ数日覚悟だってしていたのに、今、読み終わって、確かに予想通り泣いてしまって、でもその理由は不安でも悲しみでもなく、おもしろい、途方もなく最後まで面白くて、すべてが満たされていくように終わったから。大きなゴールがある物語ではないし、終わらないでくれ、と祈ることはもちろん可能で、サザエさんみたいに永遠という時間軸を生きて欲しいと思わないこともなかったけれど、それでも一方で、この物語が完結しなければ手に入れることのなかった感情が、あったんだよなあ、溢れていた。物語が終わること、それを見届けることがこんなに幸せなことだったなんて思いもよりませんでした。本当の意味での「それでも町は廻っている」。本当の意味で、私の中に、登場人物が、町そのものが、息づき始めた瞬間だった。
故郷や昔住んだ町を、ふと思い出して、今でもあの町は、あそこに住んでいる人たちは、私が何を思おうが、何を願おうが、思い出そうが思い出さないでいようが、全て関係なくただ時間の流れとともにあり、あるところは変わっていき、あるところは変わらないでいく。自分の瞳にとびこんでこなくても、情報が入ってこなくても、その町にも時間が流れているのだということを考えて、さみしいけれど、心強くなるようなそんな感覚って確かにある。生きていると、知っている町は増えていくし、そうして人の気配を、生きるという行為だけで、時間を過ごしていくという行為だけで、ふと感じ取ることができるのは幸せなことだ。時間そのものがただの数字ではなくなっていく。
この漫画によって、この漫画の完結によって、私はそんな町をひとつ、手に入れたような気がしている。もはや登場人物の行動を新しく知ることはできない。人間模様がどうなっていくのかを、はっきり知ることはできない。最終巻でも新たな不思議は登場し、未来の気配も残している。それでも、それはあくまで気配で、確定などされてはいなかった。今から見える私の未来と同じように不確定だった。期待や不安だけがある。終わりはすべてに決着をつけることでも確定させることでもない。丸子町(この漫画の舞台)の全ての部屋の時計が、全ての人の腕時計が、終わるその瞬間も動き続けていた。その状態で「さようなら」と言ってくれたならば、私はこの町を、永遠に生き続ける町として、お別れすることができる。これからも時間の流れにさらされ続ける私にとってこんなにも嬉しいことはない。

そうしてだからこそ、この物語でついたある1つの決着は、「完結」ではなく、登場人物の「人生の節目」として鮮烈だったなあ。何度もそのシーンを見直して、この全16巻を大切に、大切にしようと思った。石黒正数さん、本当に素晴らしい漫画をありがとうございました。

それでも町は廻っている(16) (ヤングキングコミックス)

ファッションいいなファッションいいなファッションいいな!

ファッション誌「SPUR」で1年間詩の連載をやっていました。いました、というのは今発売中の3月号に最終回が載っているからなんですが(終わってしまうのさみしすぎるーあーああーげほげほ)、それはともかくとして先日、美容室で読んで、忘れらなくて、みたいなことを言ってくださる人がいて、「ああ美容室!」ってなりました。美容室でふと詩に出会うとか最高じゃないですか?
美容室での言葉の読み方って日常の読書よりもかなり淡いというか、「読むぞ」って気持ちが極限まで減らされて、ある意味、瞳と心とからだが、言葉に対して丸裸だと思うんです。そういうときに触れられる詩が書けるの嬉しかった。ファッション誌の仕事はそういう意味で私にとって特別です。SPURの他に、花椿とかGINZAとかNumeroとかで詩を書いてきたけどどれもが特別だった。私がそういう雑誌が好き、というのもあるのだろうけれど、しかしそもそも詩というありかたが、ファッションというもののありかたをまぶしく思っている、というのもある。

ファッションというのは、「説明はいらない」ということをかなり自然にやっている特殊な分野だと思っています。なんにだって理由が必要で説明が必要で、だからこそオチとかおもしろさがはっきりしていて、早急にそれが手に入るコンパクトなもの、もしくは波の激しいものが好まれる時代ではあるけれど、ファッションにはそんな単純さは求められていない。「なんかいいな」をみんな分解して理由付けしようとなんてまったくしなくて、そして「しない」ということにすら無自覚だ。自然にもほどがある。だからこそ、ファッション誌を眺める瞳は、非常にピュア。そこに挟み込まれた言葉に対してもどこまでもそのままの感性で向き合っている。だから、詩がそこに惹かれていくのはある意味当然なのだろうなあ。そもそも詩とはそうした、「なんかいいな」があれば十分なものだと思っている。私にとってはそう。わからなくてもいいし、共感とかできなくても、でもなんだか奥の方で「いいなあ」と思えたらそれが詩を消化した、ということだとおもう。いま、「消化」と「昇華」どちらにしようか悩みましたよ、どっちもあると思いますよ。どうしてそこにこの言葉があるのか、理路整然と説明できるだけの文章だけが必要なはずもなくて、そもそも人の心の中に渦巻く言葉はすべて校正が入っているはずもないし、支離滅裂だし、めちゃくちゃなままでいるのが自然だ。だからそこにストンとくる言葉が書きたいな。意味はないけれど赤色を着たい日もあれば、寒くなくてもつけたいストールがある。美しいものをみたとき、自分を失っていくような喪失感に襲われるのは、その美しいものに対して、自分自身の理性が全く必要とされないからだろうと思う。理解する必要がない。どうしてそれがそこにあるのか、どうして美しく見えるのか、ということを考えなくていい。そんなものはどうだっていいと思えるほど、最初のインスピレーションが強烈で、それに浸り続けるだけでそのすべてを消化できる。それが、「美しさ」の持つ力なんだと思う。そしてその力に対してなんの疑問も抱かず、受け入れられているのがファッションというジャンルなんじゃないか。
美容室でファッション誌を見ているときの感覚は、別に研ぎ澄まされているわけでもなく、むしろどこかぼけっとしていて、ほとんどのことが右から左に流れていく感覚。でも時々どうしても忘れられない写真や言葉があり、一つでもその雑誌から見つけられたら、いい雑誌だったな、と思う。なにもかもを自分のものにする必要もなくて、むしろなぜかわからないが心に惹かれる、というものが特別な分、それ以外には非常に冷徹。その、どちらでもいい、どちらでもいいからその視線に私の言葉がさらされることが幸せだったなあ。連載は終わったけれど、ファッション誌の仕事はこれからも大切にしたいなあ。いい一年でした。


  
  
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 最果タヒにとって初のエッセイ集。
 ブログを中心に、雑誌・新聞に掲載されたエッセイも収録。

   
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ご挨拶2017

初詣というものは、無事に一年を終えたお礼を伝えに行くものだというふうに小さなころ教えられて、そのせいかお願いごとをするようになっても、「がんばりますので、努力が報われます様に。」というのが定番と化していた。無邪気な願いというものを(「努力が報われますように」だって十分無邪気だと今は思うんですけれど)する勇気がなかった私は、いつも「がんばりますので!」と何度もあたまのなかで繰り返す。でも、最近はそれすらも、ちょっと躊躇するようになっていた。
と、いうより。一年を終えたお礼を言いに行く、ということが、いつのまにかとても大事なことになっている。昔はそう決まっているから、そうしている、というだけの「ありがとうございます」が、今はいやでも実感がこもる。生きてきた時間という長いしっぽを手に入れて、それをひきずり、動きが鈍く、つまんなくなったようだと苦笑する。年は、たしかに「越す」ものだ。ただ流れていけばたどり着くようなものではなくて、来年というのは、何らかの障害を乗り越えていかなければ見えないもの。無事に、越すことができました。そうした実感が、年をへるごとに増えてきている。

「病とは治らないもの」「完治は当然のことではない」と思うようになったのはいつだったかな。考えてみれば最近まで、病とは治るものだと、どこかあたりまえにおもっていた。私は健康に恵まれていて、虫歯だってなかったので、ようするに「治らないからどうしよう」という問題に向き合ったことがない。でも、それでも周囲に知り合いは増えるし、知り合いの数だけ経験はあるわけで、病というものについて、ここ十数年で私は、何も知らなかったと何度もなんども気づかされた。風邪をひくと幼いころは「かわいそうに」と言われていたし、「大丈夫?」と気遣われていたし、だから風邪を大層な病だと信じていたし、風邪をひくたびどこかで気遣われることを期待していた。でも、十代後半になって「うつさないでね」と言われることが何度かあり、ああ、そうか、風邪は迷惑なのか、と知った。当然だろう、ウイルスをばらまく行為じゃないか、という人は多いだろうけれど、でも私はその常識を子供のころは知らなかった。みんなが、私を心配してくれたし、「うつさないで」なんて直接言われることはなかった。(もちろんマナーとしてマスクをつけるように、人ごみにはいかないように、ということは教育されたけれど。)かわいそうな私に、そんな現実的なことを言う人がいるとは、とはじめて言われたときは驚いたんですよ、みっともないかもしれないけれど。病とは迷惑なものだったのか。それぐらい、重いものなのか。風邪が重症化したことのない私は、風邪を軽んじていたし、だからこそ心配されることのほうが強く印象に残っていた。で、風邪こそが私にとっては病の代表で、病を、軽い存在として見てしまっていたのだろう。
童話だとかで寝たきりの女の子、みたいなのが登場すると、それはとてもかわいそう、と思うのだけれど、でもどこかで「かわいそうと思うべき存在」というアイコンとしてしか私の中に存在はしていなくて、そうした実感がなかなか育つことはなかった。むしろ、アイコンとして死や病があつかわれていることは世の中でとても多く、そうしたものに触れることで、実感がさらに遠のいてもいった。アイコンではなく実感として知ることは本当に難しい。友達も先生も、みんなみんな健康だ。というか、病をはっきり告白してくる人がいなかっただけかもしれない。とにかく私は病を見つけることができなかった、それが常識だとも思っていた。死や病が現実にはなく、非現実にだけある、というのは大きく、命とはつながっていくもので、途切れる方が異常なのだとどこかで信じてしまっていたんだよなあ。死は、とても近くにあるのに。

いまのは、生きていくといろんなことを知るという当たり前の話です。逆らって泳いできた川の水がどんどん、重たくなって、なかなか前に進めなくなってきた。病は思ったよりも多くのものが完治できずにいるし、お金とはどうしたって足りなくなる、そして人には裏切られたり、音信不通になる友人だって当たり前のようにいる。生活がつづいていくという普通のことがまったく普通でないと気付くたびに、まだ、私の中で普通だと思える部分、そこがとにかく損なわれませんようにという、そんな願いに傾いていった。それでも、どうしてか、普通じゃないことを願いたい日がある。普通が特別だとわかってからも、願いはときに日常から逸脱する。それは、間違っているんだろうか。むしろ、とても自然なあり方に思えた。最近そのことをよく考える。

年をとっていくことで、大望をいだかなくなる、なんていうのは嘘だと思う。年をとってみつけた夢は、若い頃に語っている夢より、ずっとスムーズに「目標」という形に姿を変えていけるから、むしろ昔の夢よりずっと、大きいのではとも思う。覚悟も力も、すでに体の中に溜まっていたかのようだ。夢のくせに儚くない。周りから見ると「無茶だ」としか言えないような夢でも、それをつかむための道を、当人はきちんと見つめている。環境や、きっかけや、努力といったものを、すべて自分で揃えなくちゃいけない、人生を変えるGOサインだって自分で出さなくてはいけない。自分が生きているっていうこと、普通であり続けるっていうことが奇跡なのだと知っているからこそ、その作業はしんどいし、しんどいからこそ机上の空論にはならないんじゃないか。夢が叶うかは別にして。

当たり前のように見える現実が、幸運によって作られていると知ったのは、生活というものが体の中に積み重なって、「私は生きている」とつねに意識ができるようになったからなのかもしれないな。川の水が重くなり、前に進むのすら困難になってきたとき、同時に、自分は今進もうとしている、ということを強く実感もしている。昔は、なんでもない日常は忘れてしまってもいい日常だった。なにかになりたい、と夢見ても、それはフィクションの中にいる自分に、どんな役柄を与えるか、ぐらいの発想だった。どこか、自分は無敵で、妖精で、ファンタジーで、無限なんじゃないかと思っていた。けれど、大人になった今、体のずっと底に「生きてきた、生きている」という実感が横たわっている。生きること自体が困難で、感触のあるものだと知った。自分の人生の輪郭を知ってしまった。そんな中で見る夢は、子供の頃とは大きく違う。
初詣の願い事はだんだん、「生きる」ことそのものに近づいて、とにもかくにも「家内安全」みたいなことをいう知人も増えてきた。私も昔から、家族の健康がだいじなことだったけれど、そこに強い実感というか、「ほんとたのむで」っていう念がこめられるようになり、はああ、私も「死はやばい」って思っているのだなあ、と気づく。死ははてしなく悲しく、こわく、そしてつらく、それでも自分の人生の果てにあるものなのだと、どうやらちゃんと認めているらしい。そして、だからこそ、「がんばりますから、報われますように」という自分の願いが、重たい。その先に期待している「報い」がファンタジーではなくリアルだからこそ、質量があるとわかる。大きいし、しかも重い。なにより、「生きる」ということ、人生まるごとと繋がって、「がんばる」という言葉自体にも重さが生じ始めていた。

実現する可能性は著しく低いというのは当然ではあるけれど、でも、生きてくると「奇跡」や「夢」は徐々に、非現実的なものではなくなっていくんだなあ。

人生とは、もしかしたら進めば進むほど、まぶしくて、うつくしいものなのかもしれません。おそばせながら、あけましておめでとうございます。
  

  
  
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現実の国から。

河出書房新社の「14歳の世渡り術」シリーズの新刊として、「正しい目玉焼きの作り方」という本が最近出たらしい。「風邪のときに作るおかゆがマズイ、服を洗濯でダメにした、穴のあいたくつ下をはいている……そんな人のために、洗濯・料理・片付けと掃除・裁縫の基本のきを学ぶための一冊」という内容。

正しい目玉焼きの作り方:きちんとした大人になるための家庭科の教科書(14歳の世渡り術)

正しい目玉焼きの作り方:きちんとした大人になるための家庭科の教科書(14歳の世渡り術)

  • 作者: 毎田祥子,井出杏海,木村由依,クライ・ムキ,森下えみこ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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こういう本が「14歳の世渡り術」として出るの本当に正解だし、愛より夢より成績より家庭科が救ってくれるものって人生のなかに、ほんと、たくさんあるって思うよ。
   
本の告知を見た時、なんか感動してしまった。大学進学で一人暮らしを始めた子がうまく友達もできなくて、でも地元には虚勢を張って、そんなときに風邪をひいて寝込んでしまって、それでもふらつきながら自分で作ったお粥がちゃんと美味しいって、それは、ものすごく救いじゃないですか。孤独になることぐらい生きていればいくらでもあって、ひとりぼっちになることなんて、生きていればあんがい当たり前のできごとなんだとわかってくるけれど、それでも私には私がいるのだということ、そのことも同時によくわかる。ひとりぼっちになろうが、生きていかなければならない。そして生きるということは、別に誰かと一緒にいるかとか、家族を作るとか、夢を叶えるとか、そういうことではなくて、ただ生活を重ねていくことだと思う。そして、しあわせなことに、生活をゆたかにしていくのは、いつだって自分自身なんだ。おいしいもの、きれいな部屋、ここちよいおふとん。生きる、ということにつまずくとき、それらが一番やさしく、救いになってくれる。その可能性は決して奪われない。
   
見た目とか健康とか才能とか性格とか、そういうのは、こうしたら幸せになれるかもってことはわかっても改善など簡単にはできない。でも生活だけはそうじゃないから。それなのにちゃんと、身体や人生につながっていくものだから。そこを世渡り術としてちゃんとしましょう、と14歳に向けて言っているのがすてきだと思った。私に14歳の姪っ子がいたとして、大人になるにはまずは生活力を付けましょう、家庭科をがんばりましょう、なんて私は言えないと思う。思いつけない。これが本当に大事なことなのに、夢だの愛だのの話ばかりしてしまうだろう。子供にとっての「未来」というのはファンタジーだと思う、フィクションだと思ってしまう。だから、彼らは現実の話ができないし、そのことを羨ましく思う私もまた、彼らに合わせてファンタジーばかり見てしまう。でも、大人という時間が現実になった私たちから伝えられることって、ご飯の作り方、洗濯の仕方、掃除の仕方、そういう、なによりも現実的なことなのかもしれないな。
   

   
  
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景色を作る日々

‪今年書いた詩をまとめてたら、つぎの詩集つくれそうな気配があった。来年に出すことができたらいいな。‬いつも、完成して出番をもらえた作品というのは私の中で存在感が皆無になるので、まとめようなんて師走だろうが思わない。今回はさきになんとなく詩集がつくれそうだ、という感覚が生じて、だからひさしぶりに詩のファイルを見直していた。詩集を作りたいっていうこの感覚はなんだろうな、書くとはまた違うなあ。
‪詩を書いて、手元に積み上がっていく感覚と、そろそろ詩集を作ろうと思うタイミングはそこまで合っていなくて、たくさんあればいいってもんでもないし、いい詩ができればいいってもんでもない。私にとって詩集を編むというのは詩を書くことはまったく別の作業であって、だからこそ、量でも質でもなくて、編むという行為が楽しそうだと期待できることが一番に重要みたいた。私は今年の初めがかなり、遠くに感じる。振り返ると、あれもこれも今年かよ、まじかよ、と思う。一年って年を経るごとに短く感じるはずなのですが、なんだか今回はこの一年に2回ぐらい年越しを経ているような感覚でした。そしてだからこそ来年は詩集を作ろうかな、と思う。それぐらい過去が意味不明だったように感じるから、そろそろ詩集を編むタイミング。‬

ネットと本で、意識して書き方を変えますか、と言われるけれど、私ではなく読むひとの意識が変わっているから、私はただそれに沿っていくだけだと思っている。ネットではリアクションが少なかった詩を本に入れることもあるし、ネットで人気でも本に不向きだと思う詩もある。ネットで流れるニュースやつぶやきやゴシップや悪口や歌詞ツイートと並列に読まれることが似合う言葉もあれば、「詩を読もう」という意識が読み手にあってこそ咲くものもあるんじゃないかなあ。本というのは、読み手個人の時間の流れによりそうことができる。ネットでの言葉は、絶対的な世界の言葉に寄り添い、だからこそ読み手を不意打ちにできる。そもそも人の時間の流れは、主観的なものと、絶対的な世界のものがあり、それがその人の歴史をつくるのだから、私はどっちの言葉もあって欲しいと思う。どっちもあたりまえに存在できることが言葉のうれしいところだと思ってますよ。

本をだすときはいつも、どこかのだれかの部屋の、枕元や本棚にその本が置かれていることをイメージする。開かれている本の姿、読まれている本の姿もいいのだけれど、本を「本」という特別な存在にしているのは、その閉じた姿にあると思っている。いま、読まれなくてもその言葉が部屋にあるということ。手元にあるということ。いつだって読めるということ。それは忘れられないひとや、においや、味や、声、それらを心に抱いて、生きていくことととても近いと思う。おおげさかな、おおげさかもしれないけど、私は当事者だからそう信じることにしている。
アメトークの読書芸人で又吉さんの本棚に『死んでしまう系のぼくらに』があったのをみつけて、その翌日にドキュメンタリー番組で一般のひとの本棚にも見つけて、なんだか得体の知れない感覚にひたっていた。本を出して、出版された冊数をきいて、勿論数字としてそれはとても嬉しいのだけれど、本当にどこかの屋根の下に暮らすひとの、生活の集積としてある本棚に、自分が書いた本がそっとささっているというの、一際に眩しい。ひとりのひとの毎日みつめる景色の中に、朝に、夜に、夕暮れに、その本はあるんだ。私はその景色を作っているんだ。本を作ろうとするたび、そんなことを考える。

 詩集「死んでしまう系のぼくらに」
 「届く詩集」を目指して作りました。44篇の詩。
 試し読みはこちら

納まらないで、仕事。

仕事を納める気が皆無だ。そもそも仕事納めなんてものは毎日決まった時間にきちんと働き、そしてそれが日々強いられている人たちのためのものであって、私みたいにさぼろうと思えばさぼれるしやろうとおもえば24時間勤務も可能な立場において、納めるもなにもない。そもそも、好きでやっていることが、あとからお金になるようになったラッキー状態で、「仕事が〜」とか言っていいのか? その言葉にはネガティブな感情が詰め込まれている。そのネガティブに見合う辛さも苦しみも私にはない! つまり、「納まらないで!年越しパーティーもあなたといっしょにいたいの!」って私は締め切りに向かって言わなくちゃいけないんだよ。なんだこの話。年末はあたまがこんがらがってつらい。
     
仕事という言葉でこの作業を呼ぶから、いちいち憂鬱になるんだろうな、とは思う。その憂鬱やら責任感が私には娯楽なんだろうな、とも思う。そもそも私にはそこまで責任感もないはずで、だからこそ責任やら義務感にへんなアドベンチャーを感じてんでしょ、そうなんでしょ、と気づいてはいるんですよね。締め切りっていう言葉に変なドラマを見出して、「締め切りが〜」と誰も何も言ってないのに憂鬱風に言っている私はあきらかに、ウキウキワクワクしてしまっている。好きなことを仕事にした場合、そしてこんな性格の場合、責任感だの意識したほうがたぶんずっとふざけていて、私はちゃんと反省しなくてはいけない。責任感を抱いたこと、真面目に仕事に向き合ったこと、それらを、反省しなくてはいけないんだ。
もちろん仕事をしなくては、と焦ることはあるけれど、それは責任というよりは、忘れられるのではないか、仕事をこなしていかなければ、次の仕事がこなくなるのではないか、という不安の方が強かった。つまり仕事があるってことを継続したいし、仕事があることを幸せだと思っている。じゃあ仕事がしんどいと思うこと自体おかしくない? 休みたいって変じゃない? と、いう流れから私の仕事は納まらないで当然なのだという結論に達しましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。仕事納め、できました? 私はNO。納まらなかったんじゃない、あえて、納めていないだけ。そう、言わせてくれ。
と、いうわけで大晦日まで作業は続きます。今年も、どうもありがとうございました。
   
(しかし一方で「仕事」という意識で言葉を書くことは私にとってちょうどいいとも思っている。仕事と意識することで、億劫な気持ちになったり責任を感じたりは正直皆無だし、それを演出して楽しんでいるだけれど、でもただ事実として「仕事」としてこの作業を捉えることは私にとって必要なことでもあった。私は、自己表現だと思って書くことはない、不特定多数の読む人がいるという前提で、書くのが好きだ。そして仕事というありかたは、私の手から完全に作品が離れて、知らない人たちの手元に届いていくことを、意味してもいる。依頼者がいて、その依頼者が、作品に対して目的を付与するから。つまり私の管轄外で、作品が社会に投入される。私の意識から外れたところで、読まれることになる。それは私にとって理想だし、だから私は他の人よりずっと、自分のやっていることを「仕事」「ビジネス」と捉えているに違いなかった。問題は「仕事」という言葉が大人ってかんじでかっこいい! ってことなんですよね。でもそんな風に思っているのはそもそも私だけなんでしょうか。だったら恥ずかしいだけなんですけど、事実は覆らない。まあ書いちゃったし投稿しちゃえ!)
   
   
  
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悪いことぐらい自分で考えろよ。

差別や偏見の何が気持ち悪いって、自分で考えてないっていうことだと思う。自分の口で、態度で、その悪意を表明しているのに、自分で考えていない、他人もみんなそう思っているっていう後ろ盾があるつもりで、そこから思考を引用したつもりで省エネしている。それはたぶん差別とか偏見とかだけじゃないのかもしれない、主語が大きすぎる価値観(「○○はみんなそう」みたいな)というのは、たいてい一人の人間の経験と思考じゃ普通は裏打ちできないはずで、そういうのを語るときどうしても世界から思考を引用してしまう。世界を代表しているつもりだから、正義のつもりにもなれるのかもしれない。でも、そんな悪意はその人自身の人格も人生もなにも入っていないからっぽのプラスチックケースみたいで、たとえば友達がそういうこと言ったとしたら急に友達の存在感が目の前から消えてしまう。最低なことぐらい考える日もあるだろうよ、善人になれなんて、人間やってたらどうしても言えない。でも、悪いことぐらい自分で考えろよ、とはどうしても思ってしまう。
最低なやつがいて、そいつに攻撃されたら、攻撃し返せばいいだけで、でもそこにいない、曖昧な「他人」とかいう存在の代表として当人が振舞っている場合、殴ったって怒ったって届かない。当人は空っぽなままで、何を言われても自分への言葉だと思わない。そういうのって気持ち悪くないですか、単純に、一人の人間が、一人の人間としてではなくて、自称「世界の代表」として振る舞うって、コミュニケーションのありかたとして気持ち悪くないですか。だってきみが私の目の前にいる意味がないじゃん。人間として向き合っているのに「いや私は世界なんで」なんて言われたらなにいってんだこいつ、と思う。私が今見ているきみという存在を、私が友達だと思っているきみという存在を、きみが、放棄するなよ、無責任だな。どうして一対一になろうとしないんだ。どうして生きていて、他人と言葉を交わせるのに、自分で考えて自分で決めたことだけ口にできないんだ。生きるっていうのはそういうことじゃなかったのか。正しさだとか道徳的な話、そういうものを自分一人で突き詰めるのが難しい、とかいうならせめて、悪いことぐらいは自分で考えろよと思う。

人間悪いことぐらい考えるでしょう、姉と弟で勉強とか運動とか、出来不出来に差があれば、互いに互いを疎ましく思ったり、友達が自分よりずっと運がいいように見えたら、同僚ばかりが才能に恵まれていたら、嫉妬してしまったり、するし、そういうのをたれながして、「私はちっさい人間ですよ」「そうだね〜」って友達なら一緒にケーキ食べますよ。私はそういう悪意が好き。その人の人格みたいなものが善意の何倍もそこにあるって思っている。でも、自分で考えたわけでもない悪いこと、口にされても、私は誰と会話しているんだろう、と思ってしまう。せっかくの時間、せっかくの場所、せっかく向き合っているのにそれかよ、って思ってしまう。差別とか偏見とかには、他にも嫌だなって思うところがあるけど、友達がそういうこと言ってしまった時は、そんな気持ち悪さについてまず考えるんだ。そんなことよりきみの職場のムカつく先輩について好きなだけ愚痴ってみたらどうだろう。毎日、深夜に布団の中でひとりぐるぐる考えている言い訳と悪口と自己肯定について。そういうのが聞きたいなって、私は思う。



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